2022年


ーーーー8/2−−−−  意地悪な男


 
以前、あるこじんまりとした、泊りがけの講演会に参加した。会場は、カナディアンスタイルの、木造の施設。アカマツの林の中、こ広いウッドデッキを囲むようにして、会議室と宿泊棟が並んでいた。食事は、ウッドデッキに配置されたテーブルでとった。夕食時には、施設のあちらこちらに電灯の明かりが灯り、とても素敵な雰囲気になった。

 数年続けて開催されたイベントで、毎回講義の内容も、参加者どうしの交流も楽しかったのだが、一つだけ嫌な経験をした。

 休み時間に、施設内のトイレに入った。小用を足していると、突然トイレの照明が消えて暗くなった。誰かが外のスイッチを切ったのだ。中に人が居ないと思ったのか。いやそんなはずは無い。内部を確認せずに灯りを消すなどということは、普通ならあり得ない。暗がりでなんとか用を済ませ、ドアを開けて洗面所に出た。そこに一人の男が立っていた。照明を消した張本人である。無言で私の方を見ていた。当然「あっ、知らないで電気を消してしまいました。すみませんでした」との発言があると思った。しかし男は、無言のまま私を見ていた。私は、なんだか気味が悪くなり、何も言わずに男の脇を通り抜けて、外へ出た。

 その男は、この施設の管理人であった。前年までは別の人が管理人をやっていた。その若い男性は、とても気さくで気の利いた人だった。しかし、公共施設なので、管理人にもローテーションがあるのだろう。その若い男性は去り、今年から例の男性に代わった。年配の、無表情な男性である。見るからに取り付きにくそうな人物であった。後で事情を知る人から聞いたところ、それまでは別の仕事をしていたそうである。何の職業かはここでは伏せるが、人を強制的に管理する職業に就いていたとのこと。そういう職業の人は、わざと他人に意地悪をするような、サディスティックな傾向があると、何かで読んだことがあったが、まさにそれだと直感した。

 その人の事を悪く思う気持ちは、もはや無い。ただ、仕事柄とも言うようなことで、そのように異常な性癖になってしまったことを、気の毒だと思うばかりである。





ーーー8/9−−−  苦手の思い出


 
孫を連れて帰省した長女が、出産準備で滞在している次女と喋っている。長女は次女に向かって「あなた感じが悪い」と言うのが聞こえてきた。これは何事かと、会話に割り込んだら、次女は何でもすぐに出来るようになるから、長女にしてみれば「ずるい、感じが悪い」という話だった。三十路を過ぎた姉妹の、子供じみた他愛のない会話であった。

 私を交えて話は方向を変え、お互いに苦手な物、他人より劣っているものは何かというテーマになった。

 私は真っ先に、ダンスが苦手だと言った。会社勤めの頃、12月になると社交ダンスの講習会が、青年婦人部の主催で行われた。何年か続けてそれに参加したが、ちっとも上手くならなかった。明らかに他の人より呑み込みが悪いように感じた。社交ダンスだけでなく、盆踊りも苦手である。公民館長をやっていた頃、役目がら盆踊りの講習会に参加した。これもまた、呑み込みが悪かった。自分はどうやら、決まったパターンに従って体を動かすことが苦手のようである。

 小学生の頃、体操も苦手だった。ボール競技はそこそこ上手かったが、器械体操はまったくダメだった。鉄棒の逆上がりは、クラスの中で最後まで出来なかった数人の一人だった。できない生徒は、皆が見ている前で、しつこく先生から指導を受ける。先生は私の足とお尻を抱えて持ち上げ、よっこらしょと鉄棒の上を越えさせた。それはなんとも屈辱的な光景だった。そんなことをしても意味が無いのにと、子供心に思ったものであった。

 飛び箱も苦手だった。他の子が軽々と飛び越える高さでも、力無く馬乗りになった。ぎりぎり飛び越えられると思いきや、箱の先端にお尻がぶつかって、どんという音を発して崩れ落ちた。こういうものは、出来る者と出来ない者の差が明瞭であり、出来る子は格好良く、出来ない子は格好悪い。出来ない子は劣等の悲哀をかみしめるのであった。

 水泳も良くなかった。25メートルプールを渡るのに、他のコースの生徒は皆泳ぎ切っていても、私は半ばでもがいているのが常だった。先生から「竹竿!」の指示が出たこともあった。

 余談だが、当時の水泳の授業は、男子は赤フンだった。それが恥ずかしいと、抗議する声がしばしば上がったが、教師側は赤フンの利点を強調した。曰く、水の中に沈んでいても発見しやすいとか、溺れた生徒を引き上げるのに、お尻のT字が掴み易いとか。その赤フンに関して、しばしば滑稽な光景を目にした。水の中で自由に遊び回る、みんなのお気に入りの時間が設けられていた。時間が終わって先生がピーッと笛を鳴らし「全員上がれ!」と号令をかけると、生徒はみなプールから上がって、甲羅干しに入る。しかし中にはプールから出ない子がいた。先生が「何やってるんだ、早く上がれ」と言うと、その子は「フンドシがほどけちゃったんです」となさけない声を発した。

 子供の頃は、苦手な事がいろいろあり、辛い思いをしたものだった。しかし今では、そういう事で他人と比べられる機会も無く、全く問題無い。




ーーー8/16−−− 象嵌加工の助っ人


 
昨年11月から、山をモチーフにした象嵌プレートの製品化に取り組んできた。昨年後半から家具の注文が極めて低調になり、僅かなりとも代わりの収入源を得たいという思いからであった。商品としての体裁が整ったので、北アルプスの某山小屋へ売り込みをかけた。オーナーと顔見知りだったので、好意的に受け入れて頂いた。5月の連休前に、ある程度の数を納めた。

 6月に入り、山小屋まで上がってスタッフと話し合いを持った。新たに作った品物を持ち込み、売店に置いて貰う事にした。その品物が、好調に売れ出した。山小屋から追加の注文が続けざまに入った。にわかに製作に追われる日々となった。

 一週間に20ヶという目標を立ててみた。プレートを一つ作るのに1時間半ほどかかる。20ヶ作るとすれば30時間。一日6時間働いても5日かかる。自宅で仕事をしているので、何かと他の用事もある。朝6時から夜10時まで働くという、私にとっては異常な労働態勢となった。糸鋸作業も、長時間に及ぶと疲労がたまり、手首や肘に痛みが生じた。右腕はテーピングのベタ張りとなった。

 11月に出産を控えた次女が、5月から我が家に滞在している。旦那が長期出張中なので、妊婦の一人暮らしは不安があると、引き取ったのである。その娘、我が家に居ても何もすることが無く、暇を持て余していた。ある日、私がてんてこ舞いをしているのを見て、象嵌作業を手伝おうかと言い出した。もちろん経験は無い。

 私は、8年前から象嵌加工をやっている。試行錯誤を繰り返し、様々な加工のテクニックを考案してきた。その経験から「誰にでも簡単に出来ることでは無い」という自負があった。実際にこれまで同業者たちから、驚異の技だと言われたことも何度かあった。その象嵌作業が娘に出来るとは、しかも商品のレベルで可能だとは、とうてい思えなかった。それでも、毎日退屈そうにしている娘に、ちょっとやらせてみようという気が起きた。

 糸鋸作業は、専用の作業台で行う必要がある。それを娘に使わせては、私の仕事が出来なくなる。そこで、溝を切るまでは私がやり、娘には溝に金属帯をはめ込む嵌入の加工をやらせることにした。その加工なら、使う道具はヤットコとニッパーと押さえ棒だけである。母屋のダイニングテーブルの上の小さなスペースで行える。糸鋸で図柄を切った板と、所定の巾に切ったアルミ帯を渡して、やらせてみた。

 初めのうちは、「難しい!」、「とても無理!」などを連発し、「簡単な部分だけにしよう」などと言っていた。しかしそのうちにコツをつかんだようであった。私は、最初にやり方を教えただけで、付きっきりで見ていたわけではない。なにしろ自分の仕事が忙しいのだから。母屋に戻った時に様子を見たら、渡した二枚の異なる図柄のプレートは出来上がっていた。これには少々驚いた。部分的に出来が悪い所もあったが、そこはやり直しをさせた。嵌入作業は、一度嵌めた金属片を抜いて取り除き、新たに金属を入れ直して修正することが可能なのである。

 驚きつつもプラスの感触を得た私は、同じ課題を続けて与えてみた。商品として糸鋸加工を施した板である。品質の低下は許されないが、もし嵌入に不備があれば、私がやり直して完成させれば良い。しかし娘は、臆すること無く、平然と加工をし続けた。出来映えに迷いがある場合は、それらのピースを別にして、私の指示を仰いだ。そして、ピースを加工するごとに、要した時間を記録して、だんだん早くなっていくのを確認するという前向きな姿勢を見せた。

 ほんの数日のうちに、私が手直しを指示する必要が無いくらいの品質になった。そこで正式に下請け作業を頼むことにした。つまり報酬を支払って仕事をしてもらうことにしたのである。娘が戦力に加わって、生産のペースはグッと上がった。

 娘に協力してもらって、大いに助かった。しかし私の気持ちはいささか複雑だった。8年間かけて開発、修得してきた技術が、こうもたやすく真似されてしまうとは・・・




ーーー8/23−−−  レーザー加工機


 
この夏、象嵌作業に追われていることは、先週書いた。製作が注文に追い付かない状況を打破すべく、レーザー加工機の導入を検討した。実は私が工芸家のK氏から象嵌加工の手ほどきを受けたとき、およそ8年前だが、レーザ加工機の話を聞いたことがあった。糸鋸で溝を切る加工をレーザーでできないかと考え、氏は県の工業試験場に依頼して試したそうである。「焦げてダメだったよ」というのが、氏の結論だった。その話を聞いた時私は、レーザー加工機の性能云々よりも、大家とも言うべき工芸家が、そのような最先端の機械に関心があったということに、むしろ驚きを感じたものだった。

 あれから何年も経っているので、世の状況は変わっているかも知れないと思った。焦げないレーザーが開発されたとは思えないが、私の仕事に支障ないようなものがあるのではないかと。ネットで探すうち、あるメーカーの品物に目が止まった。私が使う板の厚みを切断する能力があり、価格も手ごろに感じた。電話で問い合わせると、一週間無料の貸し出しがあると言うので、申し込んだ。レーザー加工機が、にわかに現実味を帯びてきた。

 届いた機械は、ミカン箱ほどの大きさだった。覗き窓が付いた上げ蓋式のケースの中で、レーザーを照射するヘッドが縦横に動き、インプットされたデータに従って模様を描いたり切断したりする。インクジェットプリンターのインクジェットを、レーザーに換えたような装置である。操作は、本体にパソコンを接続し、専用のソフトを使って行う。私はCadを使って作図をしているので、そのデータ読み取らせれば良い。

 早速試験用の図案を作り、テストピースを加工してみた。レーザー光線による溝の深さは、数値で設定できるわけではない。パラメータすなわち出力レベルと焦点の移動速度を調節して、試行錯誤で決めるしかない。また溝の幅は、線を平行に描くことで変えるしかない。レーザー加工機は、けっこうアナログ感覚な道具なのである。

 出力が低くて速度が早ければ浅い溝になり、その逆を突き詰めれば、材を切断できる。ただし、切断するほどのセッティングにすると、焦げが激しくなる。なお、図案の線を色分けして、線色ごとにパラメータを変えることにより、ここは切断、ここは描画というように使い分けをすることも可能である。

 レーザー加工機は、素材をセットしてスイッチを入れれば、直接加工が行われるので、模様の墨付け、下絵が不要である。また輪郭を切り抜くようにセットすれば、外周加工の手間が省ける。使い方によっては、とても便利な物だと感じた。しかし焦げの問題は回避できない。

 私の用途では、模様を切り抜かなければならないので、投入するエネルギーが大きく、焦げは半端でない。細かい模様や文字など、線が集中している部分では、焦げが重なり、材が炭化して脱落するというようなことになった。また、木材繊維に沿った方向の線は、焦げが激しくて溝巾が広くなり、直交する線は焦げにくい代わりに狭くなったりする。象嵌が目的の加工なので、溝の巾は一定均一でなければならない。まことに悩ましい状況になった。

 それでも、模様を描く加工を終えて、貫通した溝にアルミ帯を入れてみた。焦げてグズグズになった、巾が二倍もあるような溝に、アルミ片を入れる。入れながら接着剤を注入して、固まる前に位置を調整する。なんとも嫌な、騙しだましの作業である。象嵌加工は、溝と同じ厚みの金属を、ピッタリと嵌め込むところに醍醐味がある。その感覚が、まるで無い。また部分的に掘りが浅く、わずかを残して貫通していない溝もある。それらは糸鋸でさらわなければ、金属が入らない。こうなると、いったい何をやっているんだろう?という感じになった。

 材の組織を熱で破壊して切断するしくみは、例えれば金属加工で使う、ガス溶断機のようなものである。切りっ放しならそれでも良いが、切断面に精度を求められる場合は、具合が悪いということだ。結局レーザー加工機の導入は断念した。

 便利な機械を導入して、能率よくじゃんじゃん作品を作る目論見は、淡くも消え去った。これまで通り、ひどく時間がかかる糸鋸の手作業でやるしかない。しかしある意味これで吹っ切れた。能率よく加工できる機械があるならば、ひたすら手作業を続けるのは、なんだか損をしているような気になる。誰かがそういう機械を使い始めれば、生産性の低い手作業では太刀打ちできない。そう考えると、不安にもなる。しかしそのような手段は無いと判明したのだから、気が楽になった。独自に作り上げてきた創作の世界を、従来通りひたすら追求するのみである。

 過去に、電動糸鋸盤の使用を検討したこともあった。私が所有している国産の糸鋸盤に刃をセットして、電源スイッチを入れた途端、刃が破断した。使う刃は、厚さ0.2ミリ、巾0.4ミリという極細である。電動の強引な動作に、刃が耐えられなかったのだ。その後、輸入物の高級糸鋸盤で試したこともある。いくつかの機種を揃えている、静岡県の木工道具店に出向いて、実際に使ってみた。刃の張力が調整できる機種があり、かろうじて刃が破断せずに動いた。しかし、私が目的とする細かい模様の切り抜きには適さなかった。電動の刃の動きは速すぎて、微細なコントロールが利かないのである。デリケートな切り抜き加工は、手の感覚を頼りに行うしかないと気付かされた。 

 様々な手作業が、機械的手段に取って代わられているのが、現代の世の中である。しかし私の象嵌加工の手仕事は、今後も変わらずに維持されるだろう。深く静かに潜航しながら。




ーーー8/30−−−  時代小説の酒


 
この春から、時代小説にはまっている。さいきんはもっぱら、池波正太郎の「剣客商売」を読んでいる。読み易くて、面白い。ユーモアもペーソスも散りばめられていて、時折ほろっとさせられる。血なまぐさい内容のはずなのに、読んでいて心が鎮まり、癒される感じがすることすらある。こんな興感を覚える自分を、歳を取ったものだと思う。 ところで、話の中に、やたらと酒が登場する。

 このことである。

 往来で見知った人と出会うと、連れ立って近くの店に入り、酒を酌み交わす。そんなの当たり前である。人が訪ねてきたら、酒を出せと女房に命ずる。それも昼日中から。時には朝でも。何かの談合をする際にも、すぐに酒が用意され、飲みながらの話になる。酒をぶら下げて他家へ赴き、さっそく茶碗酒を始めるなどというのも日常茶飯事。お疲れさま、まあ一杯、で出てくるのも酒。武士も町民も、立場に関係なく、しょっちゅう飲む。博奕場の用心棒に雇われた浪人は、勤務中でも酒をなめている。悪い一団が敵に夜襲をかける際も、出掛ける前に平気で酒を飲む。今でいえば、お茶やコーヒー代わりに酒を飲んでいる感じがする。

 まるで致酔飲料ではないかのような飲みっぷりである。こんなに飲んでばかりでは、酔っぱらって何も手に着かなくなるのではと心配になるくらいだ。その当時の酒は、酔うほどアルコール度数が高くなかったのか? とも思ったりするが、ぐてんぐてんの酔っぱらいも登場するから、そういうことでも無いようだ。その当時の人は自制心が強く、度を過ごして飲むことは無かった、ということも無いだろう。茶碗酒を立て続けにあおるシーンなどもあるから、飲みっぷりは現代より激しかったかもしれない。

 飲酒に関する道徳的な縛りが希薄だったことは、あるかも知れない。自動車を運転することも無い時代だから、法律で飲酒が制限される場面も無かったろう。酔っぱらうことが、さほど社会的な悪とは見なされず、正気を失った輩でも、ことさら責められることが無い世相だったのかと想像する。現代なら、正月や祭りの時期は別として、昼間から酔っぱらって酒臭い輩は、何も悪さをしなくても、周囲から冷ややかな目でみられるのは間違いない。そういうのは恥ずかしいことであり、ああいう大人になってはダメよと後ろ指を指されるのがおちである。

 ところで、欧米社会は日本と比べて、酒に対して寛容であると言うのが、私が実体験から得た印象であった。と言っても、会社員時代に何度か海外出張へ行った時の体験だから、30年以上前のことであり、今ではそうでもないかも知れない。ともかく、工場やオフィスの社員食堂で、ビールやワインが提供されているのを見て、驚いたものであった。日本の会社の社員食堂で、缶ビールとか、清酒の瓶が置かれているなどというのは、昔も今もありえないことだろう。

 そしてスペインはマドリードの市街では、朝から立ち飲みのタベルナ(居酒屋)に酩酊状態の男たちが群がっていた。と次女に話した。ちょっと驚かしてやるつもりで言ったのだが、「あら、今の神戸だってそうよ」と返されて、逆に私が驚いた。